相模原市の障害者施設殺傷事件について

相模原市の障害者施設殺傷事件について
全盲と全ろうの重複障害を持つ
福島智・東京大先端科学技術研究センター教授の
尊厳否定「二重の殺人」という記事を読んだ。

以下はその記事の末尾である。

「障害者の生存を軽視・否定する思想とは、すなわち障害の有無にかかわらず、すべての人の生存を軽視・否定する思想なのである。私たちの社会の底流に、こうした思想を生み出す要因はないか、真剣に考えたい。」

 


この文を読んで、私にはひとつ思い当たることがる。

母の言葉である。
「お父さんの給料が安いからつまらん」
何かというとそういっていた。

父の給料が安かったのは事実である。
国立大学への進学も断念したほどだ。

しかし、言っていいことと悪いことがある。
小学生の私でも、
母は、人として言ってはいけないことを言っていると感じていた。

 


母は、私が幼いころから情け容赦なく家族に罵詈雑言を浴びせてきた。

つい最近までことあるごとに頭の中でリフレインしていた言葉は
「あんたなんか何してもつまらん」
「あんたはいいところなんか一つもない」である。

ひとつひとつは些細なことがきっかけである。

今、私自身が母となってみれば、子供だったら誰でもするような他愛ないことで怒り狂い、情け容赦のない人格攻撃に及んだ。

近所の人に注意されても逆ギレして耳を貸さない人であった。

妻によるDVであり、母による虐待である。

今、冷静に客観的に考えれば、母がおかしいのは自明の理である。

しかし、2、3日おきに
30分以上にわたり徹底的な人格否定が
10年以上にわたって行われると
洗脳されてしまっても仕方がないだろう。

そして、思い出したくないので記憶の引き出しにカギをかけていたということもあり、
私が母に洗脳されていたことに気づいたのは48歳の今である。

 


母の混とんとした罵詈雑言から導き出される世界観は
「人の値打ちはお金で決まる」である。

もちろん、母自身はそういう認識はしていない。

無意識、無自覚なのである。

そして「お金儲けは汚い」と考えている。

お金がほしいなら素直にお金を求めればまた違ったろう。

お金がほしいのにお金儲けを悪いことと考えるその思考回路は
どうなっているのかと思うが
ここに母のいちばんの口癖がピタリとハマり、つながる。

「めんどくさい」

お金はほしいがめんどくさいことはしたくない、
そういう思いが「お金儲けは汚い」につながるのだ。

 


そのうえ近所には生活保護を受給している母子家庭もある。

障害のため母親が働けない母子家庭のほうが
健康な父親がいる家庭より
金銭的には余裕があるのである。

そうしたことも母がみな小学生の私に語った。
本来、子供にする話ではないと思うが、私の母は、私をゴミ箱にしていた。

 


貧しくても楽しい家庭なら、子供ものびのび育てたかもしれないが
収入が少ない夫をなじるばかりか
子供にも八つ当たりし、家事をしたがらない母親の家庭では
子供の心は荒んでしまう。

 


相模原市の障害者施設殺傷事件の加害者の家庭は
父親が小学校の教員、母親が漫画家ということなので
経済的な不自由はなかったろう。

しかし、お金を稼げて当然、
お金を稼げない人間はダメな奴だ
という価値観をどこかで持ったとしたらどうだろう。

父親と同じ教員になるはずがなれなかった、
就職したが仕事がきついわりに給料が安い、
自分はこんな仕事に就くはずじゃなかった
という気持ちは拭い切れなかったのではないだろうか。

 


そして、自分の給料よりも
目の前の障害者の年金収入のほうが多かったら
疑問や虚しさを感じてしまうことがあっても不思議はないと思う。

 


私の場合は母親からの
「お父さんは給料が安いからつまらん」などという言葉から
貧乏人は人並みの夢や希望を持つ資格はないと思いこまされ
「あんたなんか産まなきゃよかった」などという言葉から
自分は生きる値打ちがない人間だと思い込まされ悲しい心で生きてきた。

 

 

本当は、お金がなくても

夢や希望さえ失わなければ道は開けたはずなのだ。

 


親や世間の価値観にしたがって生きてきた現代人には
そこにあるべき道がないという今時の職業事情が
心を病ませているのではないだろうか。

 


なるべく給料の多い会社のサラリーマンになるのがまっとうだという
これまでの主流の価値観を見直し

皆が自分の能力を適材適所で発揮して
その結果、皆が豊かに暮らせる、

そういった社会にならなければ
少子化も貧困も改善することはないだろう。